2011年12月15日木曜日

-葛藤-




ある日の夜、Luと一緒にShuとChenChenが待つカフェへ向かった。
吐く息は白く、手袋をしていても指がかじかんでおもしろいことになってくる。

交差点で信号待ちをしていたとき、ふと気づくと大きい土嚢袋のようなものを担いだ30代後半くらいの男性が隣に立っていた。薄いジャンパー、汚れたズボン、頬は若干こけ、髪はぼさぼさだった。
すると彼は手でお腹を摩りながら切ない顔をして小さな声で何かを言っている。
僕はつたない中国語で「お腹空いているのですか?」と聞くと「今日は何も食べていない」という。
Luは「彼はうそをついている。放っておけばいいよ」というが、どうしても放って置けなかった。
僕は「ついてきて」と、近くのコンビニまで一緒に行き、温かい飲み物と食べ物を買って彼に渡した。彼は「謝謝。謝謝。謝謝。」と繰り返しながらも、すぐに温かい肉まんにかじりついていた。
お腹が空いていたんだ。とっても。
手渡したときに触れた彼の手、ありえないくらい冷たかった。

カフェに着くと、Luは先ほどのことをShuたちに話していた。人生で初めて見た光景だって。
今日、実はChenChenの誕生日だった。Luも僕も知らなかった。
ケーキを食べて、歌を歌って一緒にお祝いした。

すると、カランカランとコインを入れたコップの音が聞こえ、振り向くと50代くらいの女性だった。中国ではベガー(物乞い)は珍しくない。よく話を聞くと、5人の子供を置いて黄山から来たのだそう。とても高い山が連なる水墨画でよく見る場所だ。生活が苦しく、大きな街に来てみたはいいけども、仕事も家もなく、空きビンを拾って売ってわずかな収入を得て生活しているのだと言う。寒いのに、家がない。手ぶらでは故郷に帰るにも帰れない。子育てが原因で左肩が上がらなくなり、動かすと激痛がはしるらしい。Shuが中国語でそのようなことを話しているうちに彼女は目に涙を浮かべ始め、泣き出してしまった。
たまらずに「大丈夫だから。」と抱きしめながら、口から日本語が出てきた。
寒いよ、辛いよ。抜け出したくても抜けられないこの生活。僕らができることって何だろう。
ひとまず椅子を用意して、座ってもらって話を聞いた。
温まると彼女の表情が少しずつ緩やかになってきた。写真やビデオ、こちらが見せる手品などにも笑ってくれた。
肩をかばいすぎてずっと動かさないでいると硬縮してしまうこと。無理しないでマッサージなど自分で出来る範囲のリハビリがあるということを伝え、一緒に行った。あと自分たちに出来ることはなんだろう。本当はここに自分の家があれば泊めてあげたい。
彼女は「黄山に来たときにはぜひ私の家に来てください。」と言ってくれた。きっと自分に余裕なんてないのに、僕らに気を使ってくれた。

この日のChenChenからのメール:「本当は誕生日なんて計画してなかったのに、奇跡が起こった。Keiたちが私の人生を変えた。」

これを読んだときは本当に嬉しかった。
人は人の行いによって変わることができる。
人は人を変えることが出来る。
それが前向きに変わったならば、とてもすばらしいこと。
いくら考えても悩んでも、自分ひとりではできないことがある。
不可能だと思っていたことも、他の誰かがそれを成し遂げたとき、自分にも出来るかもしれないと思えるときがある。
今の中国は日本でいう80年代にあたるバブル時代。豊かな人々が急増する一方、必ず出てくるのが貧富格差。そんな時代に育った最近の若者や、成功し富を得た人々はこの格差社会が生み出したいわゆる貧困層の人々(特に物乞い)を「なまけもの」だとか「自業自得」と呼ぶ。働く力があるはずなのになまけているんだ、またはお金がないと嘘をついているという。
出張で中国に来ているおじさんも同じことを言っていた。
「中国人は自分のことを一番に考える。親や友達、他人がどうであれまず自分。」
いかに人より上に立つか、富を得るかという考え方が先にくる。まてよ、これはインドにいた時にも同じ話を聞いた。

これまで途上国と言われてきた国が今、急速に発展を遂げようとしている。このとき誰もが豊かな生活を夢見る。そしてそれが現実に得られるかもしれないということがわかった時、必死にそれを逃がすまいと夢中になり、周りが見えなくなる。見る余裕がなくなってくる。
僕もこの国この時代の彼らの中の一人として生まれていたとしたら、同じように思うのだろうか。
貧しくなったのは自業自得と思ってしまうのだろうか。

寒空の下、薄い服装で路上にひざまづき、震えながらコインを求める少女に、笑いながらコインを投げつける若者を見ても何も感じないのだろうか。
いや、そんな人間にはなりたくない。
今、もしこの国に生まれたらとか、どの時代に生まれたらとか、そんなの関係ない。
全て時代のせいにして、社会の歪みが生まれ、辛い思いをする人が出てきてしまうのなら、
それを「しょうがない」と呼び、放っておくことを正しいとは思いたくない。
凍える彼らに、まだ火のついたタバコを落としていったビジネスマンを見たときは、怒りに震えた。

同じようにお母さんのお腹から生まれ、同じように御飯を食べ、同じように寝る。同じ人間だよ。
同じ人間として放っておくことは出来ない。

職場じゃないんだ、部下でも上司でもないんだ。
人の上にも、人の下にも、人はいない。そう信じてる。

たまたま僕は日本に生まれた。
父も母もいて、学校にも行かせてもらった。仕事も家もある。

同じく、たまたま彼らは中国に生まれた。
学校に行くだけのお金はなかった。明日食べる御飯があるかもわからない。

ならば助け合うべきじゃないのか。

全てきっと、たまたまなんだよ。もしかしたら自分が逆の立場だったかもしれない。
その時「しょうがない」「なまけものだ」と言われたとしたら・・・。悲しいよ。
生きてることをうらむかもしれない。もう生きたくないと思うかもしれない。

カフェで会った女性は言った「貧しい家の子供は亡くなっても、しょうがないと言われてしまう。」って・・・。

これまで幾度となく他の途上国でもこのもどかしい思いをし、自分自身と葛藤してきた。
きっとバックパッカーなら誰しも経験する葛藤なのかもしれない。
自分らがこの葛藤の真ん中に立った時、どう思うか、どう動くかは人によって違ってくるのものだと思う。

2007年、東南アジアを一人旅したときだった。
カンボジアのシェムリアップでアンコールワットに行ったあと、一緒にいた韓国人2人と、日本人2人、イギリス人1人とご飯でも食べようかとマーケットをフラフラと歩いていた。すると、ズボンの裾が何かに引っ張られている。見ると、5歳くらいの少女が「ワンダラー、ワンダラー」といいながらくっついて歩いていた。
韓国人が立ち止まり「ケイー!」と言うので振り返ると、彼らの周りには2~3人の子供たちがくっついていた。
僕らは知っていた。一人の子に渡してしまうと、「じゃあ私も!」と終止符がつかなくなることを。
いつのまにか何十人という子供に囲まれていた。誰一人笑っていない、何か悲しいそうな、切ない顔をしている。

お金ではなく、何か他の事が出来ないかと、旅中ずっと考えていた。
その時、14歳の少女が、2歳くらいの眠った赤ちゃんを抱えながら僕のもとに来て言った。

「お腹空いた・・。」

僕はハッとした。まだ子供じゃないか。お腹が空いているんだよ。喉が渇いているんだよ。
ひらめいた。すかさず思いついた作戦を友達に伝えると、みんな大賛成!

僕らは食堂(外の屋台)のテーブルを全てつなげた。足りないイスは近くのバーから借りてきた。
子供たちをイスに座らせると、みんな何が始まるんだろうとキャッキャと騒ぎ出した。
即席で作った大きなテーブルいっぱいに料理が運ばれてくる。

「みんな何飲みたい?好きなものとっておいでー!」

というとクーラーBOXのような大きな箱からソーダやオレンジジュースをつかんでは嬉しそうに席に戻る。

「よし、さあ,いただきまーす!」

みんな最初は恥ずかしそうに遠慮がちにしていたけど、次第に小さな子からはじまりだんだんみんな夢中で食べ始める。まるで幼稚園とか小学校の給食の時間に戻ったような感覚。

30、40人ほどいただろうか。もちろんイスなんか足りず、僕らそれぞれの右足に一人、左足に一人ずつ座らせ、テーブルが高くて届かない小さな子供には少し大きな子供が食べさせてあげている。とってもほほえましい。

だいたい彼らの母親たちは、少し離れた柱や建物の影からそっと見守っている。正確に言うと、子供たちが何か旅行者からもらって帰ってくるのを待っている。その親たちも笑っていて、こっちに来てくださいと手招きすると、子供たちもお母さんの手を引っ張りに行き、「おかあさんもおいでよ。」と言っている様だった。

お腹いっぱいになった給食のあとは、運動会が始まった。やんちゃなカンボジアの子供たちは容赦なく飛び掛ってくる。日本人の友達はもう子供三人をおんぶにだっこ、すでに埋もれていた。女の子の友達は女の子同士折り紙を教えたり、アルプスいちまんじゃくの手遊びをして遊んでいた。僕はというと、後ろからカンチョーしては逃げる子供たちとの追いかけっこ。まるで町中に子供たちの笑い声が響いてるようだった。

楽しい運動会は深夜2時まで続いた。抱かれてウトウトし始める子供もいた。そろそろ帰って寝る時間だ。帰る頃には誰も「ワンダラー」と言わなくなった。
次の日、同じ場所に行ったときもただ「遊ぼ!」と、飛び掛ってきてまた運動会が始まる。

これが正しいのか、何が正しいのかなんてわからない。ただ少なくとも言えることがある。

・彼らはお腹が空いていた。(僕らと同じだ)
・遊び盛りの小さな子供だ。(僕らもそうだった)
・子供たちがほんとうに欲しいものはワンダラーだけじゃない。
・笑顔になった子供たちがいた。
・その子供たちの笑顔を見て笑顔になった大人たちがいた。
・それから、僕ら外国人を友達だと思ってくれたこと。

あの時は、それで良かったんだと思う。

これまでに似たような経験と葛藤を繰り返してきて得たphilosophyがある。
If you are hungry,I give you a food.
If you are thirsty,I give you a water.
If you feel cold,I give you a blanket.
If you feel lonely,I give you a hug.
これはバングラデッシュのダッカでマザーテレサの教えの元、助けを必要としている人々のために汗を流すシスター達から学んだ教訓。今までで一番ビビっときてしっくりきた言葉。

そして、
「まず自分より他人を第一に考えること、自分のことはその後。」

その人は何で困っているのか、何を欲しているのか、そして手が必要とわかれば手を差し伸べる。
One for all,all for oneと同じだね。
この二つの言葉たちを常に心の中に閉まって旅するようにしている。すると不思議と、自分がした行いというものはいつか返って来るものだということがわかった。いつか自分が困ったとき・・助けてくれる人達が自然と周りにいる。

世の中には一人では出来ないことがたくさんある。例えば東北や和歌山で、2階から水を吸った畳を25枚降ろさなければいけなかった時。水を吸った昔の古い畳というのは150~200kgにもなる。ひとりではびくともしない。二人でもムリだ。三人だと半分持ち上がる。四人なら引きずりながらも窓まで持っていき、下に落とすことができる。

一人じゃできないこと、みんながいたからできたこと、たくさんあるんだね。

話を中国に戻すと。。

起こっていることは確かに事実として存在する。ただこの国、この社会の中で流されてしまうことなく「河原啓一郎」としての自分はぶれないように生きていきたい。

そしてこれからの長い旅、知らない世界、出合ったことのない価値観、驚き、感動、失望、新たな葛藤が必ず待っている。だって、始まって二ヶ月でこんなに盛りだくさんのことが起こるんだもの。

あと3~4年後、旅を終えた後の自分はどうなっているのかな。
わくわく!



長文読んでいただきありがとうございました。
kei

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